神奈川県真鶴町でしか採る事のできない石。それが本小松石です。
真鶴半島は、箱根火山の外輪山の形成過程(約40万年前)に溶岩流が海に押し出された事によって出来ました。
このとき、地表に流れ出した溶岩が急に固まったもので安山岩として産出される様になりました。
マグマが最初から最後まで、地中でゆっくりと固まった花崗岩と違い、地表に流れ出したマグマが急に固まった安山岩は、固まる時すでにそれぞれの形に分裂しています。
それで、本小松石は、最初から割れ石として掘り出されるのです。大きな石、小さな石、掘り出される石の大きさを人間がコントロールすることは出来ません。
独立した形で掘り出される本小松石は掘り出される地層によっても密度も色も全て違ってきます。
内部の色とは異なった茶褐色の皮に包まれ、独立した形で掘り出されるので一種、完成品のように生まれてきます。その素材に手を加えることによりさらに、新しい温かみや、やわらかさが加わります。
本小松石は、磨きによって表出するきめ細かな石肌、独自な色味と希少性などが特徴です。
掘り出されたままの状態では、茶褐色の皮に包まれていて、内部の色とは異なっていますが、目が細かく、研磨すると独自の灰色から淡灰緑色の密な石面が現れます。
磨きによって表出するきめ細かな石肌は、静かに輝き光に合わせて表情が変わります。
輝石安山岩に分類される本小松石は、仕上げの方法によって採石時とはがらりと印象が変わります。割り肌の剛、磨き仕上げの静。組み合わせの妙が石を雄弁な存在にします。
屋外であれば、太陽と調和し、室内であれば人工の光を受け止め、周囲の環境になじみながらも確かな存在感を放つのです。
石質は硬く、耐久性、耐火性に優れていて、わずかに緑がかった灰色が最上級とされています。
もう一つの魅力は、時と共に変化していくところです。季節の移り変わりや年月の積み重ねで少しずつ変化していくんです。でも、けして軟弱な石ではなく、むしろ堅牢な石なのです。
何十年、何百年と時間を経ることによって”味”が出てくるのです。
本小松石は、掘り出された一つ一つの割れ石の色や密度が微妙に異なり、気候や湿度によっても石の表情が変わったり、歳を重ねる事によっても変化する生きている石といえます。
なかなか魅力のある個性的な本小松石は、真鶴原産の希少な石です。建築材に使われるような大きな板材が取れにくい石でもあります。
石は、気が遠くなるはどの長い時間を経て生成される自然の造形物です。掘り出される層によって、密度も色もすべて違い、思い通りの石を探すのは、非常に難しい事です。
緻密で耐火性が強く、よく磨き上げると青黒い光沢が美しく高級な石として墓石、建築材、庭石、モニュメント工芸製品として幅広く利用されています。その味わいはまさに大自然からのプレゼントです。
大自然の造形物である本小松石は見る者の心を落ち着かせる力を持っています。
真鶴の石材業は、平安末期の保元の乱(1156年)頃に土屋格衛によって始められたと「石工先祖の碑」(真鶴町指定文化財)に記されています。
小松石が歴史に登場するのは鎌倉時代のことです。この頃はまだ、「伊豆石」「相州石」と言われていました。
源頼朝が鎌倉に幕府を開いて(1192年)以来、都市づくりや社寺の建造に伊豆石が用いられました。
また、後北条氏の関東支配後、小田原城をはじめ城郭建築が盛んになり、石工の技術も急速に進歩しました。
真鶴が、石材の産地として有名になったのは、徳川家康が江戸幕府を開いた頃(1603年)です。
また、江戸時代の300年間、幕府の命による石材供給のため、徳川御三家(紀州、尾張、水戸)及び松平家、黒田家などが真鶴の各所に丁場(採石場)を開いて石材を江戸に送りました。黒田長政はのちに「小松石」と呼ばれる良質の石材の開発に大いに貢献しました。
芝、増上寺の石材見積書の中に初めて「小松石」と言う名前が現れます。
真鶴町の旧岩村の小松山にその名は由来しています。小松山から取れる石材から小松石と呼ばれるようになりました。今日では真鶴以外の産地の石にもその名がつけられることから真鶴産の石は特に、「本小松石」と呼んでいます。
幕末には、ペリーが浦賀に来港したことから、幕府の沿岸警備のため品川のほか各地に真鶴の石材を使用して、台場作りを行いました。
明治末期から昭和初期には多くの建造物が小松石を使用して作られました。
最近では、切り出したままの状態で、庭園や公園などにも多く使用されています。
しかし、採石場の確保に苦慮したり、量産が難しい事など、その希少性がましています。